斎藤茂吉とは何をした人か?2028年話題の朝ドラ「ほんのモキチ」モデルの生涯

斎藤茂吉とは何をした人か?2028年話題の朝ドラ「ほんのモキチ」モデルの生涯

スマホでニュースをスクロールしていたら、「河合優実が朝ドラ主演」という見出しが目に入りました。思わずタップして読み進めると、タイトルが「ほんのモキチ」で、斎藤茂吉という人物がモデルだと書いてあります。

「斎藤茂吉って何した人?」と、そのまま検索した方、きっといますよね。私も朝ドラの発表を見て、すぐに調べました。

斎藤茂吉って誰?

名前は聞いたことがあります。教科書で習った気もします。でも「何をした人か説明してください」と言われると、言葉に詰まってしまうものです。

近代短歌の歌人? 精神科医? そもそもどっちが本業なのか、正直よくわかりませんでした。

この記事では、斎藤茂吉が何をした人かを、朝ドラを楽しむための最低限の事実に絞って書きます。

長い歴史の授業は必要ありません。発表のニュースを受けて私が調べた内容をそのまま届けるので、同じ疑問を持った方には参考になるはずです。

ちなみに茂吉、天下に名だたる偉人でありながら、妻の輝子には一生頭が上がらなかったようです。さらに「12年も別居しながら離婚もしなかった」という、やや複雑な関係。その話が、今までの夫婦円満系朝ドラより面白そうだなと思ったのです。

この記事でわかること

  • 斎藤茂吉が何をした人かの核心
  • 歌集『赤光』と近代短歌における位置づけ
  • 妻・輝子との12年別居と不仲の実態
  • 精神科医・病院院長としての顔
  • 朝ドラ「ほんのモキチ」との対応関係

 

斎藤茂吉とは何をした人か 歌人と医師、ふたつの顔

山形の農家から東大医学部へ 異色の出発点

ふたつの顔を持つ男

ニュースを見てまず頭に浮かんだのが、「医師で歌人って、どっちが本業?」という疑問。調べてみると、出だしから普通の人とは違った異色の人生を進むことになります。

1882年(明治15年)、山形県南村山郡金瓶村。蔵王連峰を東に仰ぐ、仏教信仰の厚い養蚕の村で、茂吉は農家の三男として生まれました。

家には進学させる経済的余裕はありませんでしたが、地元の住職が茂吉の将来性や才能を見抜いて後押しする形で成長します。

14歳のとき、先だっての住職の仲介で東京・浅草で医院を開業していた同郷出身の医師・斎藤紀一のもとに身を寄せることとなり、開成中学校に編入学しました。医学を学んで斎藤家の養子となり、病院を継ぐためです。

史実では、仙台の旅館で初めて最中(もなか)を食べて「こんなうまいものがあるのか」と驚き、上野駅に着いたときには「こんなに明るい夜があるものだろうか」と衝撃を受けたという逸話が今も残っています。

山形の純朴な少年が、そのまま東京帝国大学医学部へ進んでいったというわけです。

農家の三男から養子として医学の道へ

1910年、東大医科大学を卒業。精神医学を専攻し、大学助手として付属の巣鴨病院に勤めます。同時期に、すでに短歌結社「アララギ」の編集にも加わっていました。

この時点で医師と歌人という二足のわらじ生活が、始まっていたのです。

歌集『赤光』近代短歌の流れを変えた一冊

歌集『赤光』

実は『赤光』という名前は、今回調べるまでほとんど覚えていませんでした。教科書で絶対習ったはずなのに、するっと頭から抜けていた。

1913年(大正2年)に刊行されたこの第一歌集は、発表当時の歌壇に大きな衝撃を与えました。中でも「死にたまふ母」という連作が有名です。

みちのくの母のいのちを
一目見む一目見むとぞ
いそぐなりけれ

亡くなっていく実母への深い思いを、目で見たものをそのまま言葉に落とし込む形で詠んだ作品群で、それまでの観念的・技巧的な和歌とはまったく違うアプローチ。芥川龍之介が絶賛し、「僕の詩歌に対する眼は誰のお世話にもなっていない。斎藤茂吉にあけてもらった」とまで書き残しています。

短歌結社「アララギ」の中心人物として、その後の近代短歌の方向性を決定づけました。それが茂吉を歴史的重要人物として注目されたのでしょう。

歌集は処女作『赤光』から遺歌集『つきかげ』(1954年)まで17冊。生涯に詠んだ短歌は1万8000首余りにのぼります。

その熱量もさることながら、医師として働きながらこれだけの作品を残したことに正直、驚かされました。

 

精神科医・院長として病院を守った生涯

病院を守り抜いた生涯

正直、はじめは朝ドラの主人公になるような人物だとは思いませんでしたが、複雑な経歴の持ち主で人間味あふれる人生模様に少しづつ興味がわいてきました。

医師としての茂吉は、1921年に文部省在外研究員としてウィーン大学とミュンヘンの国立精神病学研究所に留学します。

ドイツ語で研究を進め、1924年には医学博士の学位を取得。帰国の途についたその船上で、青山脳病院全焼の電報を受け取りました。長年苦労してヨーロッパで買い集めた膨大な書物も、部屋の中ですべて焼失していたといいます。帰国した茂吉が目にしたのは、養父が一代で築いた病院の焼け跡でした。

そこから奔走して病院を再建し、1927年(昭和2年)に青山脳病院の院長に就任。患者と向き合い続けながら、歌も詠み続けました。

医師として培った観察力が、短歌にも生かされたと見る研究者もいます。

文化勲章受章と1万8000首の生涯

文化勲章受賞と圧倒的な創作量

1937年(昭和12年)に帝国芸術院会員となり、1951年(昭和26年)には文化勲章を受章。翌年には岩波書店から「斎藤茂吉全集」全56巻の配本が始まっています。

よく「偉人の功績」と言いますが、茂吉を単に『偉人』と呼ぶと、何か大事なものが抜け落ちる気がします。

今回の発表資料を読む限り、クドカンが描こうとしているのはどちらかというと「普通に情けない男」としての茂吉で、それがおそらく実像に近いのでしょう。その点は後述します。

1953年(昭和28年)2月25日、心臓喘息のため東京の自宅で死去。70歳9ヶ月の生涯でした。この生没年・死因については、公益財団法人 斎藤茂吉記念館の茂吉略年譜でも確認できます。山形県上山市にある同記念館は、茂吉の業績と資料を保存・公開している公益法人で、1968年に開館しました。

 

朝ドラ「ほんのモキチ」と斎藤茂吉の実像 何が面白いのか

偉人だけど、普通に情けない男?

妻・輝子との12年別居「朝ドラ史上最も不仲な夫婦」

「朝ドラ史上、最も不仲な夫婦」というキャッチコピーを見たとき、少し大げかも?と思っていました。ところが史実を調べると、これはかなり控えめな表現なのかもしれないと思い始めました。

腹を立てた輝子が茂吉に怒鳴り込む場面もあるでしょう。ドラマの中とはいえ「この夫婦は本当に実在した」という実感が伝わったとき、見え方がきっと変わってくるのでは?期待しています。(クドカンの演出ですからね)

朝ドラ史上、最も不仲な夫婦

ここで、どんな奥さんだったのか?歴史を元にサクッと解説してみます。

妻・斎藤輝子(1894または1895〜1984)は、青山脳病院を経営する斎藤家のお嬢様として育ちました。

学習院女学部に通い、婦人誌の表紙を飾るほどの華やかな存在。父親に「なんで男に生まれなかったのか」と言わしめたという逸話が残っているほど、勝ち気で行動的な女性でした。(じゃじゃ馬系お嬢様?)

1914年に茂吉と結婚しますが、農村育ちで実直な茂吉と、裕福で自由奔放な輝子とでは価値観が噛み合うはずがありません。

輝子は観劇やダンスや演奏会へ遊び暮れる毎日で、茂吉は手をあげることもあったとか。負けじと輝子が夫の体臭を周囲に吹聴するなど、険悪さは周りにも丸わかりの状態だったといいます。

1933年、「ダンスホール事件」では銀座のダンス教師が上流階級の婦人たちと不倫を重ねていたことが発覚、輝子の名前がメディアにも報じられます。

茂吉はこの事件を「精神的負傷」と日記に記し、別居を決意することになりました。以後12年にわたって妻とは別々に暮らす生活が始まるのですが、離婚はしなかった。それが逆に不思議な関係だなと思いました。

妻・輝子との不思議な関係

晩年の輝子は、世界108か国を旅し、79歳で南極に上陸するほどのアクティブさを発揮します。「痛快ばあさん」としてテレビやラジオにも出演しました。

茂吉が晩年に体調を崩したとき、よく付き添い面倒をみたのは、結局この輝子でした。

 

宮藤官九郎と河合優実「ふてほど」コンビを選んだ理由

宮藤官九郎✕河合優実「ふてほど」コンビ

「ふてほど」を見ていた方なら、河合優実という名前を聞いて「あの人か」と一瞬でわかるはずです。

聖子ちゃんカットのスケバン昭和不良少女役で、阿部サダヲ演じる主人公から「盛りのついたメスゴリラ!」と暴言を吐かれても「うっせえなあ!クソじじい!」と真っ向から言い返す姿が、強烈な印象を残していました。

「ふてほど」は2024年の流行語年間大賞を受賞し、河合優実自身も「Yahoo!検索大賞2024」の俳優部門に選ばれています。

その河合優実と宮藤官九郎がNHKの朝ドラでタッグを組む、と発表で聞いたとき、「え、あの2人が?」という驚きがありました。宮藤官九郎にとっては、平均世帯視聴率20.6%を記録した「あまちゃん」(2013年度前期)以来、実に15年ぶりの朝ドラ執筆です。

宮藤さん本人は会見で、斎藤輝子を選んだ理由についてこう語っています。

「思ったことは全部口にして、自由奔放に生きた人」で、「それに対して夫の茂吉さんは無口で、突然かんしゃくを起こすような人」。あらゆる点で全く対照的なこの夫婦が、毎日のように喧嘩をして、10年以上も別居しながら、なぜか別れなかった。

そのおもしろさが、脚本を書きたいと思った理由だと明かしていました。

個人的な印象として言うと、茂吉は「偉人」と呼ばれますが、発表の資料を読む限り、クドカンが描くのはどちらかというと「普通に情けない男」としての茂吉です。

大病院の院長で数々の名歌を詠んだ偉人ですが、陰気で粘着質で冴えない風貌の婿養子ゆえ、人望もない残念な夫。ドラマの紹介文にそのまま書かれていた言葉ですが、これが史実をかなり踏まえた造形だとわかると、笑えてきます。

ちなみに、夫・斎藤茂吉、その他の出演者については、まだ未定です。今後の追加発表が予定されています。

茂吉を動かしたもう一人の女性 永井ふさ子との秘密の往復書簡

もう一人の女性 永井ふさ子

輝子との別居が始まった翌年、1934年のことです。傷心の茂吉(52歳)は、正岡子規三十三回忌の歌会で数え年25歳の永井ふさ子と出会います。愛媛・松山出身の才媛で、前年にアララギに入会したばかりの未婚女性でした。

師弟関係として急接近した2人は、やがて深い仲になります。

ふさ子は一度、気持ちを断ち切ろうと別の男性と婚約しましたが、のちに解消。その後は生涯独身を通し、茂吉との手紙を交わし続けました。この史実が資料から明らかになったのは、茂吉の死後のことです。

ちなみに茂吉はふさ子に、書簡は読んだら燃やしてくれと頼んでいたそうです。燃やさなかったからこそ後世に残ったわけですが、まあ、人の気持ちというものは手紙にそう従ってはくれないものです。

ドラマがこのエピソードをどう描くかはまだわかりません。登場人物名や団体名が一部改称されるとNHKも発表しているので、あくまでフィクションとして楽しむのが正解です。

ただ「朝ドラの記事を見てから茂吉について調べたら、ドラマよりも実際のほうが面白い」と感じているのは本音で、史実を知っておくと2028年の朝ドラが違う見え方になると思います。

精神科医が短歌を詠む、という組み合わせは現代では特段珍しくありませんが、明治・大正期に一人の人間が医師・病院経営者・近代短歌の旗手という三つの専門性を最高水準で持ち続けたことは、実は奇跡に近いんじゃないかと思います。

輝子との不仲や永井ふさ子との秘密の書簡、帰国したら病院が全焼していた衝撃。そういう波乱の連続が、茂吉の歌をあれだけ凄みのあるものにしていたのかもしれません。

 

まとめ:斎藤茂吉が何をした人か、一言で言うなら

斎藤茂吉が何をした人か

「歌人・精神科医・病院院長・不仲夫婦の夫」。斎藤茂吉という人物をもっともシンプルに表すとしたら、この四つになります。

どれか一つを取り出しても不完全で、この四つが同一人物の中に同居していたことがこの人の面白さの核心です。

朝ドラ「ほんのモキチ」が描くのは、茂吉ではなく妻・輝子の視点から見た茂吉の物語です。ドラマを見るとき「これは妻の物語だ」という視点を忘れると、茂吉が悪者に見えすぎてしまうかもしれません。

世間では大先生であっても、妻からみれば「ほんの」という存在でした。タイトルが示しているのはそういうことで、それがこの夫婦の本質だったのかもしれません。

妻から見れば「ほんの」モキチ

放送は2028年度前期。まだ2年近くあります。でも今回の発表を受けて茂吉を知っておくと、放送が始まったとき画面の見え方が変わるはずです。

河合優実が演じる輝子が茂吉に怒鳴り込む場面の向こうに、12年の別居と1万8000首の短歌と往復書簡が透けて見えてきます。

茂吉の詳細な年譜や歌集リストは、公益財団法人 斎藤茂吉記念館の茂吉略年譜ページでご確認いただけます。山形県上山市の記念館は、茂吉の生地に建てられた公益財団法人で、歌集・書画・遺品から居室の再現展示まで充実した資料を保存・公開しています。